歯科医師を志す

なぜ、歯科医師に?
この問いに答えるためには、わたしの生い立ちから話をしなければなりません。
わたしは宇都宮市の南東の平松、下栗のあたりで、田んぼに囲まれて生まれ育ちました。
両親は商売を営んでおり、忙しく働く両親に代わり、主に同居する祖父母に育てられました。
祖父母は専業農家で、いわゆる田舎のおじいちゃん、おばあちゃんです。
祖父母は可愛い孫であるわたしを大変かわいがって、大切に育ててくれました。そのため、甘いお菓子もたくさん与えてくれました。
1970年代の田んぼの中に予防歯科なんてあるわけもなく、当然のように、幼少期のわたしの口の中はムシ歯だらけでした。
近所に歯科医院はなく、祖母とバスに乗って市内の歯科医院に通った記憶があります。
小学校、中学校と歯科検診でムシ歯にチェックされ、その度に歯科医院に通っていましたが、順調に銀歯は増えていきました。
歯が痛くて授業中に涙をこぼしたこともあります。
このムシ歯の治療を繰り返すという不毛な状況は、大学に入るまで続きます。

自分がムシ歯で苦労したから歯科医師を志しました。

Before:銀歯だらけ
After:新商品のセラミックを自分で実験

と言えれば素敵な話なのですが、実は違う仕事を目指していました。
すみません、生い立ちはあまり関係ありませんでした。

田舎なので、両親や親戚、身近なところに会社勤めをしているような人がおらず、みんな公務員か自営業という環境で育ったわたしは、独立して仕事ができて、しかも、人の役に立てるという動機で医学部を志望していたのです。
しかも、国公立大学医学部を。そのくせ、高校生の時は楽しく過ごし、見事に浪人の一年間は、必死で勉強しましたが、国公立大学医学部は手が届きませんでした。しかし、二年目の浪人はできないということで、合格していた私立医大は無理なので、授業料が安い国立の東北大学歯学部に進学したわけです。
(両親は、学費の心配はするなと言ってくれました。ただ、わたしが自分の力不足を両親に補ってもらうようで嫌だったのです。)

というふうに消極的な理由で進学した歯学部でしたが、ふたを開けてみればピッタリでした。
散々苦労したムシ歯の原因を知り、ムシ歯の苦しみから解放されるし、そもそも手先が器用だったので、人より早く実習の課題は終わり、同級生に羨ましがられました。
ムシ歯で苦労したおかげで、おおよそ一般的な歯科治療は、自分の体で経験しています。酸いも甘いも知っており、まさに天職に巡り合ったと思っています。

予防歯科とインプラント 
おおつか歯科クリニックを創る

医師と異なり、歯科医師には、大学病院や大きい総合病院で生涯、勤務し続けるという道はありません。
つまり、ほとんどの歯科医師はいずれ自分のクリニックを持たなければならない職業だということです。
わたしが大学を卒業し、歯科医師免許を取得した頃は歯科界の変革のタイミングで、みんなが自分の専門分野を持とうと大学院に進む時代でした。
同級生のうち大学の研修医や大学院に進まずに就職した人はわたしを含め、わずか3人しかいませんでした。

なぜ、わたしは大学に残らなったのか?

1日に5人程度しか患者さまを拝見しない大学病院では、十分な臨床経験を積むことができないことに気がついていたからです。
とにかく、早く一人前の歯科医師になりたい、その一心でした。

最初に勤務したのは宮城県の福島県に近い海の近く、鳥の海歯科医院です。
小さな港のすぐ近くで、漁師さんもお見えになるようなところでした。
田舎でしたが、治療はしっかりするというクリニックで、院長の上原先生は歯科医師会の役員でお忙しくされていました。また、近頃珍しい、歯科技工士(詰め物や入れ歯を造る資格)が院内にいらっしゃって、いろいろ教えてもらいました。

毎日毎日、ムシ歯、歯の根の治療、抜歯、入れ歯と忙しく診療していました。
勤務させていただいた2年ちょっとで、一般的な治療は大学病院の10年分くらい臨床経験を積むことができたと思います。
最初は日々、自分のできる事が増え、目に見えて上達していることが実感でき、充実していました。

ところが、しばらくすると自分の仕事に虚しさを覚えはじめたのです。

田舎でしたので、ほとんど全ての歯をムシ歯にしまっている若い子も何人もいました。半年がかりで一通り治療を終えたはずなのに、最初の頃に治療した歯の違う場所がムシ歯になっていたり、それこそ昔のわたしのように、毎年、学校検診でチェックがついて、春休み、夏休みのたびに治療をくり返す子がいました。
また、部分入れ歯をつくれば、バネをかけた歯に負担がかかり、歯がぐらぐらし、また抜歯して、また新たにひと回り大きい入れ歯をつくり直したりの毎日でした。総入れ歯もたくさんつくりました。

気づいてしまったのです。
自分が何も治していなかったことに。

どうしたらよいか考えました。そして、2つの結論にいたりました。
1. ムシ歯になってはいけない。ムシ歯になることを繰り返さない。
2. 歯を無くしてはいけない。入れ歯は、自分の歯の代わりにならない。

おおつか歯科クリニックの大きな2つの柱
『予防歯科とインプラント』にたどり着くきっかけです。

歯科医師の間にも、予防歯科やインプラントはまだまだ浸透していない時代でした。
幸運なことに、学生のとき、予防歯科のパイオニアである熊谷 崇先生の講義があり、基本的な知識はすでにありました。
インプラントは講義にもなく、大学では否定的な意見が多かったように思います。ただ、書籍で勉強してみると、わたしが感じた虚しさを払拭してくれる可能性を感じさせてくれる治療でした。

とにかく、インプラントが良いものなのか、悪いものなのか自分の目で見て決めることにしました。
そして、益子の及川歯科医院に勤務することにしました。

インプラントは、まさに自分の求めていた治療でした。
失った自分の歯を取り戻すことのできる治療でした。
人間の体のことなので、100%の治療ではないですが、しっかりとメンテナンスしていけば、ほんとうに長持ちする治療であることを見せていただきました。
及川先生の技術を盗もうと、自分の診療の合間に及川先生の診療を後ろから、横からのぞき見しました。(食い入るように見すぎて、近いと怒られたこともありました。)ちょうど、及川先生が(公社)日本口腔インプラント学会の専門医を取得されたときに勤務していたことから、わたしも専門医取得を目標にすることにしました。

及川先生にはインプラント以外にも、歯科医師を続けていくうえで必要なことをたくさん教えていただきました。意心地が良くて、当初2年勤務して独立するつもりでしたが、4年近く勤務してしまいました。

勤務医時代は、自分のクリニックをどんなクリニックにしようかと考えながら勤務していました。
『予防歯科とインプラント』この2つを柱とすることは、すぐに決まりましたが、もっともっと勉強しなければなりませんでしたし、具体的に診療にどう活かすか悩みながら毎日工夫していました。

2つの歯科医院に勤務して、たくさんの臨床経験を積ませていただいて、自分の好きな治療も見えてきました。
(予防歯科は治療しないことが治療なので、歯科医師の出番はありません)

『インプラント』そして『審美歯科』です。

審美歯科といっても、美容形成外科・歯科的な治療ではなく、歯科医師と当たり前のことですが、機能と美しさを最小限の侵襲で目指します。

わたしは歯科医師です。
できるだけ良い治療結果を提供する責任があります。
職人的な頑固さで治療に集中、専念する必要があります。
そのために完全予約制と担当性分業診療とすることにしました。

満を持して、おおつか歯科クリニックを2006年4月18日に開院しました。

おおつか歯科クリニックを開院して、あっという間に10年以上が過ぎました。
日々、進化していますし、まだまだ発展途上です。
おおつか歯科クリニックを開院してからの話は、またブログででも、お話できればと思います。

Before:ガタガタ歯並び
After:見えない矯正インビザラインの初めての症例は自分でした